岐阜地方裁判所 昭和45年(わ)25号 判決 1970年10月22日
主文
被告人を懲役一年六月に処する。
この裁判の確定した日から二年間右刑の執行を猶予する。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は満三才のころ罹患した脳膜炎のため聴覚機能および言語機能を喪失した唖者であるところ、昭和三九年一〇月二六日、当時勤務していた岐阜県関市のサンテ衣料株式会社の同僚で唖者であった○○○(昭和一四年三月一五日生)と結婚、同市東山六番地の二に木造スレート瓦葺平家建住宅一棟(建坪約一五坪)を建築所有して爾来同所に居住し、同人との間に一男、一女をもうけていたが、昭和四四年七月上旬ころ、同町内に住む大野かぎ子(明治三七年九月五日生)から、同女の子で被告人方にしばしば夜遅くまで出入りしていた唖者の大野真二(当三六、七年位)につき被告人が同人を誘惑し、金をまき上げようとしているかのごとき状況を示す言動を近隣の人々の面前でなされ、そのため右誤解を深く悲しみ、また普段より隣家に住む夫の弟で唖者である○○○夫婦と折り合いが悪く、自己の子供が唖者に取り囲まれた環境から受ける影響等あれこれ考え、いずれは是が非でも同所を立ち退き他に転居したいとの強い希望を抱き、夫や知人に転居の相談をもちかけていた矢先、同月一六日午後七時半ころ、夫の兄○○○○(昭和一〇年一〇月一二日生)が来宅し、約一時間に亘り、転居をあきらめるよう説得され、到底被告人の希望は達せられる見通しがないことがわかったので大いに悲観し、右家屋に放火して自殺しようと企て、同月一七日午前三時二五分ころ、流し台の上の棚に置いてあったマッチで古新聞紙に点火し、これを自宅の食堂と六畳間との境にある障子外二ヶ所の唐紙に押し当て、これを燃え上らせて燃焼の末現に人の住居に使用する前記家屋をそのころ全部焼燬したものである。
(証拠の標目)≪省略≫
(弁護人の主張に対する判断)
弁護人大野悦男は、被告人が犯行当時、心神喪失であったから無罪、または唖者であり、犯行当時心神耗弱であったから刑の免除または減軽をなすべきであると主張するが、唖者の点については刑法四〇条は無罪または刑の減軽を定めているので右の主張はその趣旨であると解される。そこで同法三九条と四〇条との相互の関係を考えるに、同法四〇条により無罪を言い渡すべき場合とは唖者なるが故に行為の是非を弁別し、またはこれに従って行動する能力を欠く場合、即ち心神喪失として刑法三九条一項をも適用し得べき場合であり、それ以外は唖者については精神の障碍の有無、その程度を問わず、いわば唖者を心神耗弱者と擬制したごとき趣旨で、すべて刑を減軽すべき旨定めたものと解される(同旨、徳島地方裁判所昭和四二年一一月二日判決、下級裁判所刑事裁判例集第九巻第一一号一三三三頁以下登載)。従って刑法四〇条中、無罪を定めた部分は両条の適用上無意義な規定であり(改正刑法準備草案以降、唖者の規定は廃止する機運にある)、弁護人の前記の唖者であることを理由とする刑の免除の主張(無罪の趣旨と解される)は心神喪失を前提としない場合には失当であると考える。また心神耗弱による刑の減軽の主張も、被告人が唖者であることを前提としているものである限り、前記の法解釈および刑法六八条が複数の減軽事由につき、一回しか減軽を許していない趣旨から失当であると解する。しかし被告人が犯行当時、心神喪失の状態にあったとの主張があり、更に心神耗弱の状態にあったか否かは犯情を考慮する上で重要であるのでこの点につき判断を加える(被告人が唖者であることは先に認定したとおりである)。
≪証拠省略≫を総合すれば、被告人の家系には精神異常者の存しないこと、被告人が三才のころ風邪をこじらして、前認定のとおり、脳膜炎に罹患し、唖者となったが、精神分裂症等狭義の精神病の既往歴のないこと、八才のころから岐阜県立岐阜聾学校に寄宿のうえ勉強したが、成績優等のため、ヘレン・ケラー賞を授与され、一年限短縮して八年で同校を卒業したこと、その後愛知県一宮市の織布工場に就職したが、和洋裁を習い、前記のとおりサンテ衣料株式会社に就職して真面目に勤務したので、使用主の信頼を得、その仲介で同僚である現在の夫と恋愛結婚したこと、夫との間には二児をもうけ、子供の養育には通常人と余り変らぬ家庭生活を送ってきたものであること、犯行の動機およびその原因が前認定のとおりであり、被告人は自殺を企図して燃えさかる住居の中に居続け、重程度の火傷を負い、夫に戸外へ連れ出された後も再び火中に飛び込もうとした事実のあること、被告人は当時月経状態であったこと、その後約一ヶ月間、中濃病院に入院したが、若干興奮状態にあったこと等が認められる。しかしながら右の各事実のうち、犯行前後の多少普通でないと見られないでもない行動は被告人が唖者であり、他人との意思の十分な疎通を欠いたため、生来勝気な性格である被告人が精一杯表現した抗議のための行動であり、犯行後はそのショックによる興奮状態を呈したものと了解され、前述の被告人の生育歴や当公判廷での通訳人を介しての供述およびその態度、殊に犯行の態様の詳細を充分に追想できること等に鑑みると、被告人には唖者であることによる若干の教育上のハンディキャップはあるものの、犯行当時その行為の是非弁別の能力およびこれに従って行動する能力が全くなかった、或いは著しく欠けていたものとは到底認められないので、弁護人の右の主張はこの点からも採用できないと認める。
(法令の適用)
被告人の判示所為は刑法一〇八条に該当するが、所定刑中有期懲役刑を選択し、右は唖者の行為であるから同法四〇条後段、六八条三号により法律上の減軽をし、なお被告人の境遇、家庭事情、被害弁償の事実、充分反省している事実、前科前歴のない事実その他諸般の情状を考慮し、同法六六条、七一条、六八条三号により酌量減軽をした刑期の範囲内で被告人を懲役一年六月に処し、情状により同法二五条一項一号を適用してこの裁判の確定した日から二年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項但書により被告人に負担させないこととする。
よって主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 平谷新五 裁判官 岡山宏 太田幸夫)